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ウェブ会議の最適化

現実にはK来の言うように、K来が長く社長をやったおかげで結果的にY路の任期が短縮されたのは事実である。 K来社長任期延長の裏にあったものもう少しK来の話に耳を傾けてみよう。
上げますと、たしか一九八五年(昭和六O年)の秋でした。 二四O円ぐらいだった円が一気に一三O円ぐらいにまで跳ね上がった。
輸出比率の高いキヤノンにとっては為替の単純計算だけで一OOO億円の損失なのです。 ということは、その前年の利益実績が約四OO億円なので、それを差し引いても悪くすると六001七OO億円の赤字企業に転落する恐れが出てきた。
そこで、会社の業績がひどくなりそうなときに、経営の最高責任者が逃げ出すようなことをすべきではない。 社長を辞めるのは円高の問題を片づけてからにしようと考え、自分の社長退任時期を一期ずらしたのです。
円高が起こったとき、K来はちょうど海外へ視察旅行に出かけていたという。 抜本改革が必要だ』などと騒ぎながら、勝手なことをやり出していたのです。
たとえば経理担当の役員などは、経費を半分にしようと私の留守の聞に通達まで出していた。 もう九月でしたから予算を半分にするということは残りの四カ月はほとんど金を使えない。
非常に無茶な話なのです。 また、人事担当の役員は来月から賃金カットだと騒いでいる。
そこで私は『ちょっと待ってくれ』とストップをかけて役員全員に集まってもらったのです」役員たちが必死に円高対策を講じようとする姿勢はK来にはよく理解できた。 放任しておくわけにはいかない。

役員たちはそれぞれが自分の担当分野の立場から言いたいことを言っている。 このまま彼らに勝手なことをさせておけば、やがて責任の転嫁し合いになって、社内の不和に通じる可能性もある。
K来はそうなることだけはなんとしても避けたかった。 空気が生まれてきてはまずい。
だから私は、君たちの働きが悪いせいではないのだから気にするな。 万一の場合の資金の手当ては十分についている。
かりに二年ぐらい赤字が続いても全然心配はいらない。 そんなことより、いまはそれぞれがそれぞれの持ち場で全力を尽すことが大切だと言ってやりました。
抜本改革ということについても、こう戒めたという。 はないか。
君たちの考える抜本改革とはいったい何か。 君たちの話を聞いていると、急場しのぎの対策としか思えない。
それは抜本改革にはならない。 われわれは優良企業構想を実現するため、これまでも抜本改革の連続でやってきた。
たまたま円高になったからといってあわてることはない。 もちろん、節約できるものは節約する必要があるが、あまり無茶なことをやってはいけません。

山で道に迷うと、たいていの人はそこから脱出しようと方向も定めずやみくもに歩き出すが、それがかえって道難の原因になることが多い。 あとから救援隊が行ってみると同じところをぐるぐる歩き回っていたということがよくあるそうじゃないか。
そうならないよう、こういうときこそ冷静になってほしい。 日本経済が突然の円高に見舞われたのはK来社長の九年目にあたる八五年(昭和六O年)の秋だった。
当然、翌八六年(昭和六一年)度の業績は大幅にダウンするというのが常識的な見方であろう。 最悪の場合、赤字転落も考えられた。
K来が一O年を区切りに社長を辞めるとすると、その退任時期は八七年(昭和六二年)の三月。 ちょうど八六年度の決算発表が行なわれる頃だ。
つまり、K来は赤字決算の発表とほぼ同時に退任しなければならなくなる。 経営者にとって、こんな屈辱的なことはないだろう。
そういう事態はなんとしても回避したかったはずだ。 幸いキヤノンは、持ち前の強い経営体質のおかげで赤字転落は免れ、わずか二年足らずで円高不況を克服した。
あとから握り返ってみれば、K来は予定通り一O年でY路にパトンタッチしていてもおかしくはなかったともいえる。 それはあくまでも結果論であろう。

た。 翌年には円高の前の利益水準に戻ったので、安心してY路に社長を譲ったわけです。
Y路に社長を譲るときは社内にこう宣言しました。 もう私は山には登らない。
山の麓にいて、周囲の情報観測やアドバイス役に徹するので、はY路社長を先頭に立てて登ってほしい。 次のエベレストに日本的経営を見直すべきときが、きただが、K来が一O年で社長を辞めようと思っていた決意を翻したのは、が理由だったのだろうか。
一九八七年(昭和六二年)八月にはキヤノンは創業五O周年を迎えることになっていた。 おそらくK来は、創業五O周年を重要なタ|ニングポイントと考え、キヤノンの進むべき新しい方向性を現役社長として指し示しておきたかったのではなかろうか。
そういう使命感がK来には必ずあったと思う。 結局、K来が会長に退いたのは年号が改まった八九年(平成元年)の三月だった。
すでにはスタートして二年目に入っていた。 あれから丸四年。

今度の社長交代はどんな狙いと意味があったのか。 果して円高だけ終了し、ひと区切りついたということがひとつ。
四年間はちょっと短かったが、Y路社長は一応任務を果したと思う。 実はもっと重要な理由があるのです。
それはここへきて日本的経営が大きく様変わりしつつあるということです。 われわれは従来、終身雇用制や年功序列、企業聞の系列といった日本的経営の特徴を一は別問題です。
もちろん、日本的経営がいっぺんにダメになるとは思いませんが、五年ぐらい先になれば相当な変革を覚悟しなければならない。 そこで、いまのうちに社長を含めた経営陣の若返りを図り、どんな時代になってもあわてないよう備えておこうというのがいちばんの大きな狙いなのです。
K来は、自分やY路はもはやオールドジェネレーション、古いタイプに属する経営者だと言う。 も常務になるのも同時だった。
でも、彼は技術屋で私は事務屋。 ライバル意識なんかなく、いわば同世代の戦友のようなもので、張ってきた。
だから今度の社長交代を決めるときも、私はY路にこう言ったのです。 次の新しい時代、二一世紀に向かっての方向転換は無理だ。
私にもできない。 それについては若い連中に任せて、彼らに考えてもらおう』とね」K来は、Y路社長の後継者としてM手洗肇を選んだ理由を次のように語る。
た考えはまったくなかった。 私がY路に社長を譲った時点まだ次の社長を誰にするかは決めていなかった。
既定路線でもなんでもない。 この四年間、じっくり観察してきた結果、新社長にはM手洗肇君がいいだろうということで決めたのです」数多くの候補者のなかから誰を社長に選ぶか、K来は悩み、迷ったという。
なったのは会社の和ということでした。 お互いに力を合わせてキヤノンを発展きせようと頑その点、M手洗肇君は考え方が極端に偏らないで、バランスがとれている。

周囲の評判などを聞いてみても、悪く言う人がいない。 この男ならキヤノン全体を束ねていけるなと判断したわけです」優秀な若手を抜擢して一二世紀の経営の確立を新社長に就任したM手洗肇は一九三八年(昭和一三年)十月、故M手洗毅の長男として東京に生まれた。
極端で、女の子はミッションスクールに入れて可愛がるが、男は大愛と称して千尋の谷に突き落として厳しく鍛えるというスタイルでした。 私が生まれた噴は、まだM手洗病院が目白にありましたが、戦争で焼けてしまいました。

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